命を大事にって宗教ですか?

命にはいろいろな事情があります。病気に立ち向かう人もいれば、環境に苦しめられる人もいます。
その時に、何が一番大事なのかといえば人間の尊厳であるように思います。


大変人気のある病院では、末期患者の最後の願いを叶えるためにあらゆることをボランティアでするそうです。
リスクを負ってでも心残りのない臨終をむかえてほしいとの祈りです。


かつて戦争で非人道的な収容所に入れられた人は、自ら命を断とうとする人が続出したそうです。
人として受け入れがたい扱いに耐えられなかったのではないかと推測されます。


あるいはとてもレアな病に冒された場合、医者ですらその原因を特定できずに、そのために周りから仮病であるとレッテルを貼られることがあります。
闘病をしていると周りに認知されるには、それ自体メジャーな病気に限定されます。
知られていない病気と闘う時は、病気そのものと周りの無理解と両方と闘うことになります。


命を大事にとキャンペーンをする人がいます。
その際によく使われるロジックは、闘病している人と自殺未遂する人を表面的にしか理解せずに命の優劣を決めるという態度です。


自分と同じ病気で苦しんだ人を理解できるのはわかります。自分の通った道だからです。
ではその人は自殺未遂をしたことがあるのでしょうか。病気は理解できても同じ心境になっていなければ他人を理解できていると言えるでしょうか。
自分にとって理解できることは贔屓をして、それ以外に対して無理解で通すというのは誠実でしょうか。


当たり前ですが、闘病している人も、環境に苦しめられる人も、同じ命です。
命を大事にするということは、どちらかの経験を軽んじてもいいということではないと思います。


例えば、頭痛の中には激痛と呼ぶのも生易しい、自殺頭痛といわれるものがあります。
それが発病したら、寝ていてもその発作で飛び起きてそのまま激痛で気を失ってしまうレベルの病気です。
しかも、頭痛なので治療法がありません。


頭痛は未だに世間では理解していない人が多数います。そして、そういう人が自殺する原因になるほどだと理解できるでしょうか。


闘病というのは、理解しやすいです。どこが病魔に襲われていて、適切な治療法があり、生存率があります。
そして、生き残れば病気に勝ったというストーリーを描けます。


では、終りのない苦しみ、無理解との戦いはどうでしょう。
こちらはストーリーがありません。それどころか苦しんでる理由を探そうとすると加害者になりかねません。
理解できない人がいる、という環境こそがその人が苦しんでいる理由だからです。


命を大事にというなら、どちらも平等であるとの立場であるべきです。命が尊いものであるならそうあるべきです。
それを一方は理解を示し、もう一方は軽んじる。それは一般的に差別と言うのではないでしょうか。


どちらか一方の価値観を押し付けるのは安易な宗教論者のようだと思いました。